1.はじめに(そろばんとの出合い)
私のそろばんとの出合いは,今から,50年前になります。親が脱サラをし,青果業に携わっていたこともあり,小学校2年生の6月に,東京都世田谷区にある中野珠算塾羽根木支部に入塾しました。教員養成系の大学を卒業するまで10年余,お世話になりました。
2.塾での指導助手として大切にしてきたこと
ご指導いただいた藤井將男先生からは,常日頃「学習には,考えることが大切である」と言われていました。この言葉が,私がこれまで指導者として仕事をするに当たっての基盤となりました。例えば,開平の計算の仕方について,なぜ,そろばんで平方根を開くことができるのか,数学的な背景を根拠に「考え」させてくださったことが,今でも,鮮明な記憶として残っています。
3.教員として大切にしてきたこと
「考えるために,必要なことは何か?」このことを,常に大切にしながら,36年間にわたる教員生活を送ってきました。「思考」が成立するためには,その根本にある情意的な側面としての「意欲」の醸成とともに,「何を」「どのように」考えればよいかを自分でコントロールできるようにするための「自己調整学習能力」の育成が大切であることを実践的研究の中で実感してきました。「主体的な学習者として,児童が成長するために,指導者は何ができるか?」自分なりに考えてきたつもりです。
4.教育の原点を求めて(島での教育活動)
内地から,280km余,離島である八丈島で勤務する機会を得ました。よく,「へき地教育は,教育の原点である」と言われます。自分が大切にしてきたことと島民の願いとを融和させながら,些少ではありましたが,そろばんを通した教育活動の集大成を目指しました。
(1) 「そろばんづくり」の実践研究
まずは,「そろばんづくり」に取り組みました。「もし,自分がそろばん工場の社長さんだったら,どのようなタイプのそろばんを作りますか?」という問題意識のもと,次の工程を経て,「Myそろばん」を製作します。
「そろばんの設計図を考える
☞実際に作る
☞作ったそろばんを比較する
☞文化の創造を追体験する」
児童が作ったそろばんは,昔から,それぞれの
地域で発明された文化財であることを紹介し,自分たちの発想や考えには,価値があるということを相互に評価できるようにしました。自分たちが,文化の創造者でもあるということを実感できる場を設けました。「そろばんづくり」は,学習者の当事者意識を高める取り組みとなりました。
(2) 「八丈実記」との出合い
八丈島は,流民の島でもあります。流罪となった中には,文化人も多く,島民に手習いや内地における文化の伝承を担った方々が多くいらっしゃいます。その中に,近藤富蔵氏(1805年5月31日~1887年6月1日)がいます。江戸で出生したが,とある事件を起こし,長期にわたり八丈島に流罪となりました。その後,赦免されるも生涯の大半を島で過ごしました。その間に,全7巻にわたる地誌の大作「八丈実記」を著しています。
島には,「八丈実記を読む会」というサークルがありました。「実記」を手がかりに島のことを知りたいという仲間が集まって始まった勉強会に3年間参加をさせていただきました。実記の会は,「八丈島歴史セミナー」として,八丈の歴史と文化についての講演会や地域巡検等も行っています。富蔵氏の命日である6月1日には,毎年,島内のお寺で墓参が行われます。
「八丈実記」には,江戸時代の寺子屋から,明治時代の学校開設への移行期にかけて,島では,どのようなことがあったのかが記されていました。例えば,学制発布以降,できるだけ早い時期に学校を開設しようと島民が働きかけたこと,これまで島で大切にされてきた学習の内容を引き継ぎながら,どうやって新しい学問を取り入れようと苦労していたかなど,当時の島しょ地区における教育の在り様を知ることができました。
(3) ライフワークとしてのそろばん
学制発布以降における義務教育への充実に向けた取り組みを島ではどのようにスタートさせていったのか?その土地にいないと気付けないことや当時の島民の想いが今に引き継がれている実の姿を直接肌で感じることのできた,貴重な日々でした。
一方で,そろばんを用いた教育活動の具体について,さらなる疑問が沸き上がってきます。例えば,「和算と洋算との融合の時期に,そろばんが指導の中でどう扱われていたのか?」「島民の,学校に通わせる必要感と,学校の指導者が教えたいこととの異同には,具体的にどのようなことがあったのか?」等々,具体的な部分については,さらに,追究が必要です。
島から内地へ再び戻ってきた後も,この問題については,過去の文献や当時のことに詳しい関係者への聞き取り等を基に,今後も精査をしていきたいと考えています。
この問題の解明には,いくつかの課題があります。その一つが,廃藩置県に関わる件です。学校開設当時,伊豆諸島は,1871年(明治4年)には足柄県,その後,1876年(明治9年)には静岡県の管轄でした。それが,1878年(明治11年)1月11日,東京府(現在の東京都)の管轄へと移行されました。種々の教育史を当たっている最中ですが,管轄移行に伴う,当時の情報の引き継ぎが難しかったようです。「今後も,地道に足を運び,該当する資料を見付け出していきたい」このことをライフワークの一つとして,取り組んでいきたいと考えているところです。
5.むすびに(キャリア教育の終着駅に向け)
現代は,将来の在り様を予測することが困難な時代です。だからこそ,一人ひとりが,直面するさまざまな変化を柔軟に受け止め,感性を豊かに働かせながら,どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかを考え,主体的に学び続けていくことが重要です。
生涯学習者の一員として,私も,これまでの経験や知見を活かしながら,問題の解決・解明を続けていきます。